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D ドレーゲルの歴史 ヨハン・ハイニリッヒ・ドレーゲル (1847–1917) ベルンハルト・ドレーゲル博士 (1870–1928) ハイニリッヒ・ドレーゲル博士 (1898–1986) 内容 初期の時代発明家の作業場から医療・ 04 安全技術専門家に 激動の時代:革新的なチャレンジそして 10 政治的制約の間 新たな出発:近代的なテクノロジー 20 グループへの変化 グローバル化:グローバルなテクノロジー 30 リーダーとして再位置付け クリスチャン・ドレーゲル博士 (*1934) セオ・ドレーゲル (*1938) ステファン・ドレーゲル (*1963) グローバルなグループ兼家族経営の会社 110 年以上にわたり、生命を守るテクノロジーに専念 世界中でドレーゲルは「生命を守るテクノロジー」として知られており、これは 会社を導く哲学でもあります。ドレーゲルグループは常に技術的革新そしてお 客様の現実的なニーズとの間で適切なバランスをとれることで知られています。 このバランスを必ず適用することがドレーゲルの製品やシステムソリューショ ンの基本となっています。 ドレーゲルグループはドイツのリューベックをベースにしていますが、常に成功 を収めている秘訣は、医療および安全技術業界の成長にはっきりと焦点を当てて いること、国際市場に対して早期に拡大していること、そして何よりもお客様、 従業員、株主そして一般大衆と信頼関係を築きそれを維持していることです。 会社はドレーゲル家の企業家メンバーにより管理され、決してビジョンを失うこ となく、新しいチャレンジに責任を持って対応してきました。ヨハン・ハインリ ッヒ・ドレーゲル、ベルンハルト・ドレーゲル博士、ハインリッヒ・ドレーゲル 博士、クリスチャン・ドレーゲル博士、セオ・ドレーゲルそして現在はステファ ン・ドレーゲルが経営しています。家族により経営されている会社の主な目 的は、健康的な成長で、それが今でも会社内での決定を形成します。 ヨハン・ハインリッヒ・ドレーゲルにより 1889 年に設立され、家族により 経営されてきましたが、2005 年からはステファン・ドレーゲルが五代目取締 役社長を務めています。先駆者同様、彼は会社の四つの基本的な価値をしっかり と守っています。その価値とは、お客様と親しい関係を保つこと、革新を継続す ること、高品質であることそして従業員の一人一人が有能であることです。 これが今日にいたるまでドレーゲルブランドの長所および特長となっています。 3 初期の時代発明家の作業場から医療・ 安全技術専門家に 4 1900 年頃、リューベック、モイスリンガー・アリーにある「昔の工場」。 5 1889– 99 1891 年郵便配達がヨハン・ハインリッヒ・ ^ ド レーゲルにルベカ弁の特許を配達する。 1889 年、特許の仕様:ルベカ弁がガス圧力規制に › おいて、会社の技術的リーダーシップを確立する。 販売が増し、製造 マノメーター製造の立ち 元祖ビール販売装置が 競合者のバルブ – ワークショップおよび店舗 も二交代制に 上げ 市場でヒット 基礎技術のさらなる開発 である「ドレーゲル & ゲ ルリング」の設立 ハインリッヒ・ドレーゲ 二酸化炭素を減圧するため ルが個人事業主になる のルベカ減圧弁 ベルンハルト・ドレーゲル がデザイナーとして入社 6 ルベカ弁は非常に軽量ですが、それを使って初めて高圧 1889 タンクから二酸化炭素を正確に制御しながら取り除くこ 最初の特許 とができるようになりました。ドレーゲルの製品はたっ たの 2 キロで、競合者の製品はそれよりかなり重い 歳のビジネスマンであるヨハン・ハインリッヒ ・ ド ものでした。この最初の特許が創業間もない会社に変革 42 レーゲルがリューベックにてビジネス・パートナーと共 をとげるのでした。 に 1889 年 1 月 1 日に「ドレーゲル・ウント・ ゲル リング」を設立。そのとき既に信じられないキャリアが ハインリッヒ・ドレーゲルはをは機械工だったので、高 目の前に開かれていました。時計職人である父親を若く リスクでありながら自分の発明を売らないことにし、自 して亡し、彼はエルベの村に住む母親のもとで慎ましい 分で製品を製造そして販売することにしました。それは 環境の中で育ち、地元の学校に通いました。しかしなが 正しい決心で、この会社はやがて繁栄し、産業企業とな ら、産業革命そして株式会社が多く設立された時期は多 るのでした。 くのチャンスを秘めており、才能があり野心あふれた機 械工はこの機会を逃しませんでした。小規模の修理から 始めた彼は、やがてあらゆる種類の機械を扱うビジネス 1899 マンとしてリューベック社会の中で特定分野を担当する 未来は酸素 ようになり「たたき上げの人」として知られるようにな りました。しかしながら、これはドレーゲル成功物語の 前兆に過ぎません。 酸素、これが設立者の息子であるベルンハルト・ドレーゲ ルが未来のトピックとして選んだもので、これが今日でも 新しく設立された会社は、圧縮二酸化炭素を使うビール 会社の使命である「生命を守るテクノロジー」なっています。 蛇口システムなどの装置や新しいアイデアを販売する会 彼は医療や安全のための圧縮酸素の使用など、技術的革新 社でした。19 世紀後半では、スチール製タ ンクに 高 のために出現し始めた、目前にある市場の可能性に気づき 圧ガスを入れるのが可能となっていましたが、低圧力で ました。ベルンハルト・ドレーゲルは減圧の原理を発見し、 管理可能な安全な方法でガスを取り除く方法はまだ開発 これは半田付けや溶接の装置から、換気や呼吸器にいたる されていませんでした。ドレーゲルが販売していた装置 まで、さまざまな製品に利用できる基礎技術です。彼は父 もまだ不十分でした。つまりガス(そしてビール)の流 親のビジネスにおける最も優秀な発明家となり、化学や物 れが制御できず不均一だったのです。そしてバルブはし 理学の知識を成長企業につぎ込み、90 年代終わり に ばしば欠陥品で、修理を要しました。当時のテクノロジ は彼の指導の下で、広域に渡る研究開発が始まりました。 ーに不満を覚えたドレーゲル氏と、機械工として資格を 特殊製品開発の最初の成果は 1899 年に市場に出されま とったばかりの息子のベルンハルトは、解決策を探し始 した。これが酸素と水素の配分を行う酸素 / 水素装置、 めました。その結果がルベカ弁で、既存の製品よりかな そして酸素タンクの満載レベルを正確に見るために使う高 り優れたものとなりました。 圧圧力計であるフィンメーターで、いずれもタンクからの 酸素に生命を依存している人たちにとっては必要不可欠な ものです。 接続スレッドの業界基準 吹管溶接および切断トーチ 「ヒュルフ」会社困窮 ハインリッヒ・ドレーゲ フィニメータおよび酸素 の実現 基金の設立 ル誕生 / 水素装置 ( 1898 年 7 月 2 日) 酸素配分に関する基礎 リューベック、モイスリ 圧力吸引噴出酸素注入器 研究 ンガー・アリーにおける ドレーゲル工場の建設 外科医オットー・ロスと 協力 7 1900 – 09 1902 1906 麻酔の制御 クリエール鉱山事故 オットー・ロス教授がベルリンのドイツ外科学会で、継続 月 10 日、フランスのクリエールの鉱山で大爆発が起こ 3 的な酸素供給が可能となった、世界最初の麻酔装置を発表 りました。その当時、1,600 人が地下で作業をしてい ま しました。それまでは、麻酔中のガスの配分を正確に行う し た。直ちに救援の要請が来て、ドイツの救助隊もフラ ことができなかったので、恐ろしい副作用が生じ、手術中 ンスの炭鉱夫の救助に駆けつけました。国粋主義の時代に の患者は酸素が十分でなかったり、呼吸が停止したり、循 、この一致団結の姿勢はかなりの波紋を及ぼしました。し 環器の停止が起きることがありました。ロス – ドレーゲ かし、ほとんどの炭鉱夫にとっては、救助は遅すぎました ル麻酔装置は、エーテルやクロロフォルムなど、酸素と麻 。1,000 人以上が炎、毒ガス、炭鉱壁の崩壊そして洪水 酔薬の量の正確な配分に成功した最初の装置で、これによ のため死亡しました。しかしその後は、ドレーゲル呼吸装置 り麻酔を制御できるようになりました。これは医療活動の を装備したフランス救助隊により、毎日のように炭鉱夫が救 歴史におけるマイルストーンで、会社にとって重要な財政 助されました。2 年前の 1904 年に、ベルンハルト・ドレ 的成功でした。それから 10 年の間、世界中で 1,500 台 ーゲ ルは 一 連 のテストを行い、人間の呼吸要件に関す のロス – ドレーゲル麻酔装置が販 売され、 ドレーゲ ル る不十分なデータを修正しました。このテストの結果によ は医療技術の先駆者としての国際的名声を確立しました。 り、初めて使用可能な呼吸装置が作られ、これが炭鉱夫の 会社にとってのもう一つの重要な成果は、医療関係者との 救助者の間で使われました。ベルンハルト・ドレーゲル自 異なった学問分野間での親密な協力が成功したことで、こ 身もクーリエに行き、地下の救助隊の作業条件を経験しま れは今後も続くことになります。 した。ドレーゲル製の装置は新しい可能性をもたらし、こ れはヨーロッパおよびアメリカの数多くの鉱山事故で知ら 1904 呼吸器の開発が、生 理 学 ‹‹ 的研究から始まる。 1906 年フランスのクリー エの 事 ‹ 故現場にて、鉱山救援者が呼吸器 を使う。 航空飛行用酸素供給装置 酸水素ランプ ロス - ドレーゲル麻酔器 最初の安全溶接トーチ 1904/09 炭鉱夫用 呼吸 器(ドレーゲルマン) 技術の移送:新しい適用 搬送式酸素吸入器 200 メートル まで の 分野の系統的開発 潜水用シミュレーション 利益共有システムの立ち ドレーゲルベルクの設立 ・システム 上げ 、ハインリッヒ & ベ ル ンハルト・ドレーゲル 呼吸保護のための生理学 研究 8 ^ 1902 年オットー・ロス (左から三番目)とロス - ドレーゲル麻酔器。 れ驚くほどの効果を及ぼし、会社はその分野において技術 的に優位を保つようになり、アメリカの鉱山救助員は 「ドレーゲルマン」として知られるようになりました。 ることができなかった遭難者の生存チャンスを改善しまし た。ドレーゲルはパルモーターを使った救助に関するレポ 1909 ートの中で「信じられないほどすばらしい」と述べていま 連続生産の中をサバイバル す。パルモーターは会社における初めての大規模な商業的 成功で、そのライフサイクルにわたり、ドレーゲルベルク パルモーター呼吸器は創業間もない会社のベストセラーと はさまざまな医療および安全技術の分野において、基本的 なりました。これはヨハン・ハインリッヒ・ドレーゲルが 治療としての酸素の効果的なそして高度な技術による使用 息子のベルンハルトと共に設計してから 2 年後のこと で を実行します。 す。この大成功は、新しい技術的な進歩によるものです。 パルモーターは簡単に持ち運びでき、酸素不足から意識を 失った人たちを救助できる最初のデバイスで、以前は助け 一酸化炭素センサー ブラウン - ドレーゲ ル パルモーター ドレーゲル - ビス、ア セ 気球飛行用高度酸素呼吸器 正圧力器 チレン溶接トーチ 呼吸する空気を浄化する 潜水艦用空気浄化システ 石灰カートリッジ ム 水素切断トーチ ドレーゲル燃焼保護 潜水艦員のための潜水用 再呼吸器 アメリカ、ニューヨークに ドレーゲル・オキシジェン ・アパラタス(株)を設立 9 激動の時代: 革新的なチャレンジそして政治的制約の間 10 1910 年ユナイテッド・スチール・コーポレーションの鉄鉱石鉱山の作業員。 「ドレーゲルマンは鉱山事故で死を間近にし、火災、爆発、洪水そして陥没から人命を救う」(カナダ、ノバ・スコティア、ステ ラートンのドレーゲルマンを訪問した作家クララ・デニスの著書「ノバ・スコティアの魂求めて」より)。 11 1910–19 1913 年パイロットがパルモー タに ^ よる治療を受ける。 1913 年世界最初のホースのな い潜 ›› 水装置をテストするための、水中 シミュレーションシステム。 1917 年呼吸器製造ラインの 女性 › 作 業員。 ロス - ドレーゲ ル混 合 ロス - ドレーゲル - ベルンハルト・ドレーゲ ドレーゲル・チューベン 輸出割当 40% 麻酔器 ク ローニグ正圧混合麻酔器 ルが個人事業主になる 自己救助器 (カナダとアメリカ) 酸素注入器、 系統的な潜水 ドレーゲル混合麻酔器 ドレーゲル高度呼吸器を 会社の失業保険計画の設立 モデル 1910/11 使って、飛行機の高度記 録の更新 (6,120 m) 第一次大戦開始 ホースのない潜水器 新しい工場がオープン 12 1911 1914 ドイツ帝国 U3 潜水艦の沈没 輸出 40% 月 17 日にキール湾で U3 が沈没しました。バラ ス ト 平和時の最後の数年においては輸出、特にアメリカへの輸 1 タンクの一つが誤って浸水し、30 人の隊員が閉じ込め ら 出が生産の 40% を成しましえた。継 続的な 改革お よび れました。1905 年にドレーゲルが開発した空 気浄 化 技 製品の改善がドレーゲル製品の国際市場での優位を固めま 術により、隊員はフローティング・クレーンが沈没した潜 した。1909 年から 1912 年の間だけでも、ド レー ゲ ル 水艦を持ち上げるまで生存することができました。27 人 はドイツの特許 46 件および国際特許を 35 件登録し の船乗りが魚雷バレルを通り抜けて脱出しましたが、タワ ました。子会社であるドレーゲル・オキシジェン・アパラ ーに閉じ込められていた将校だけが生き残ることができま タス(株)は 1907 年に既にニューヨ ークに 設立さ れ せんでした。初期潜水艦の乗務員の安全は、明らかにドレ ていました。この国際的なベースがドレーゲルベルクにと ーゲルベルクの新しい活動分野となりました。U3 上の って第一次世界大戦の勃発を特に劇的なものにしました。 船乗りの命を救ったのは、ドレーゲルの 1907 ソーダ石 国際市場での販売の大部分は失われ、戦時中の需要に取り 灰カートリッジで、これにより吐き出された大量の二酸化 代わりました。 炭素を結合することができました。 1916 1913 西部前線でのガス戦争 「優れた作業環境」の工場 高等学校を早めに卒業後、ベルンハルト・ドレーゲルの 長男であるハインリッヒ・ドレーゲルは、帝国軍に徴兵 ベルンハルト・ドレーゲルが強化コンクリートでできた、 され、西部前線の野戦砲連隊に派遣されました。ドレー モダンな高層ビルの工場のドアを開けると、従業員と彼と ゲル・ガスマスクのおかげで、この若い兵士はいくつか を包み込む建物を見ることができます。それは緑で囲まれ、 のガス攻撃を免れました。1915 年、ドレーゲル ベル 建物は広く、陽が差しこみ、廊下や会談は幅が広く設けら クはプロシア戦争省の要求により、ガス保護器の開発を れ、エレベータはモダン、電話ネットワークを備え、衛生 始めました。戦争期間中、この呼吸保護デバイスは合計 施設はしっかりしたものです。この進歩的な労働条件は、 460 万個製造されました。軍事お よび民間 から も 1897 年という早期の段階から従 業員 とそ の家族に社 多大な需要が生じ、会社は急成長しました。従業員数は 会保障を提供することによりさらに高められています。ヨ 300 人から 2000 人に増え、新しいビルが建ちま し ハン・ハインリッヒ・ドレーゲルは「ヒュルフ」会社困窮 た。以前は手動生産が行われていましたが、生産は大規 基金を設立し、1910 年には従業員の家に資金を 提 模になり、大量生産になりました。戦争は会社を瞬く間 供するための会社を設立しました。 1914 年には、ベルン に競走上有利な産業運営形態にしましたが、戦争が終わ ハルト・ドレ ーゲ ルは 会社 の失 業保険を設立しまし ると共に、生産は激減しました。そして多大な損失、多 た。 くの一時解雇、そして工場閉鎖が続きました。 呼吸マスクの大量生産 西部前線でのガス戦争開始 ヨハン・ハインリッヒ・ サーキット・システム 従業員数が 2,000 人を ドレーゲル死亡 および吸収カートリッジ 超える 新しい工場、新しい事務 (1917 年 5 月 29 日) 本部 動員のため実存的危機が ドイツの 11 月革命および終戦 生じる 13 1920 – 29 ^ 1924 年新規輸出市場への販売: ソ連 へ輸 出 さ れ る呼吸器。 1923 危機の時代 インフレと経済危機のため、会社は工場を閉鎖し、従業員 会社 の従業員が 300 人となり、十分な開発の は一時解雇されました。終戦後、ドレーゲル製品に対する 度合いを見せるには 1928 年まで要しました。 市場が激減し、会社はリネン製品、服やカーテンなどの代 替品の製造を余儀なくされました。その間、多くの競争相 手がリューベックで開発した製品のコピーを始めました。 1924 ベルンハルト・ドレーゲルは会社に大打撃を与えた国際特 ドレーゲロジェン:炭鉱夫全員の人命救助用エア 許の損失に対して、力強い製品の改革をもって対抗しまし た。この戦略により、会社は 20 年代初期には、旧市場で 再 度足場を築くことができました。1923 年の閉鎖によ ドレーゲロジェン:炭鉱夫全員の人命救助用エア炭鉱夫用 ってま た も や後退となりましたが、 1924 年には販売 BG 1924 呼吸器は、ミニチュア改革で した 。 それより 高が 安定す る ようになりました 。し か しながら、 以前は、搬送用呼吸器を使って、個々の肺に一定の、そし 接続に対して DIN 基準 最初の集中型ガス供給 最初のアセチレン用 の導入の先頭を切る システム 再呼吸麻酔器 鉱山用 BG 1924 クロ ーズド・サーキット呼吸器 シリンダーのないドレー ゲロジェン脱出器 14 1923 年経済危機:工場の門で作業員がピケを張る。 ^ 1924 年BG 1924 呼吸器の宣伝用ポスター。 › て適切に最適な酸素の量を送ることは大問題でした。新し い技術はこの問題を解決し、瞬く間に標準となりました。 された正圧呼吸を行うこともできます。麻酔の歴史の中 もう一つのマイルストーンはドレーゲロジェンです。これ でもマイルストーンであるモデル A は、 現代 の麻 酔 は軽量で使い方が簡単な呼吸器で、酸素タンクを要さず、 器で期待されているすべての特長を備えています。 安全を求めて逃げる炭鉱夫に最適でした。この装置の主要 部品は二酸化カリウムのカートリッジで、息に触れること により最大一時間酸素を発生します。この技術は今日でも 鉱山での安全のために使われているテクノロジーの一例で 1928 す。 大西洋蒸気船時代における顧客の保持 ベルンハルト・ドレーゲルは 1928 年に亡くなりまし 1926 た。農業経済の博士である息子のハインリッヒが会社の経 クローズド・サーキット・システム:手術室での新しい基準 営を引き継ぎました。同年、彼はアメリカとカナダを 3 ヶ月間旅行し、これらのメジャー市場の勉強をしました。 笑気はクロロフォルムより優れており、世界中の手術室 そして会社の従来のお客様である病院、鉱山、消防署など で幅広く使われるようになりました。しかしながら高価 を訪れ、ドレーゲルベルクの販売代理人と知り合いになり なため、1926 年にドレーゲルが導入 したクロー ズ ド ました。30 年代には、彼はアメリカ、ソ連そして他の国 ・サーキット・システムは大変人気を博しました。再呼 々も幅広く訪れます。国際的な顧客の育成そしてその国で 吸の原理に基づいた技術は既に鉱山で使われており、炭 の国内市場は、ドレーゲルベルクの成功要因の一つとなり 鉱夫が吐き出した酸素を吸いこみ、作業を続けることを ます。ハインリッヒ・ドレーゲルは会社を世界市場へと力 可能にしました。この原理が今では麻酔に適用され、モ 強く導き、製品の 50% までもが輸出されるようになりま デル A は初めて大量生産されたクローズ ド・サ ー キ した。この先の戦略は、国内需要が下落した大恐慌のとき ット麻酔となりました。新種の二酸化炭素吸収器が排気 大変役に立ち、外国への販売により損失分を抑えることが された空気を正常化し、これが装置に戻されます。管理 できました。 一酸化炭素 / 空気吸入 モデル A 麻酔器 酸素の化学的発生 ベルンハルト・ドレーゲ 呼吸保護のためのドレー ユニット ル死亡(1928 年 1 月 12 ゲル軽金属シリンダー 一時的閉鎖、従業員の三 ガス検出システムの基礎 日) 救助ダイバー用クローズ 分の二が去る ハインリッヒ・ドレーゲ ド・サーキット装置 ハインリッヒ・ドレーゲ 収益増:従業員を ル博士が社長となる 300 化学部門の設立 ル博士が入社 人増やす 15 1930 – 39 1931 1932 成層圏の制覇 モルゲンロット – 水中のドラマ スイスの探検家そして物理学者であるオーグスト・ピッカ ドイツの潜水艦が沈没。船員が 10 人いるにも関わらず、 ードは軽合金でできた気球用バスケットで、今までにはな 沈没した潜水艦には 8 つの脱出用潜水再呼吸器しかあ かった 15,781 メートルまで昇ることができまし た 。 りません。この劇的な物語は UFA の映画である「モルゲ この高度では、呼吸はできません。しかしドレーゲルの技 ンロット」(1932) で、その年にドレーゲルが完成した呼 術のおかげもあって、この危険な実験は可能となりました 吸技術がいかに潜水艦隊員に重要であるかを示しました。 。つまり、新しく開発された空気浄化システムそして液体 事故が起きた際に、生存する唯一のチャンスはその技術に 酸素呼吸器が使われたのです。彼の飛行は探検に新しい時 よるものでした。ドレーゲルベルクはなんと 1907 年に最 代をもたらしました。以前は考えられなかった深海そして 初の 潜 水艦再呼吸器を開発し、ベルンハル トとヨハン 宇宙が急に近いものとなりました。未知の世界への段階の ・ハインリッヒ・ドレーゲルは 1912 年に最 初の搬送用 基本となったのは、ドレーゲルベルクが主要な役割を果た 潜水器を 導 入しました。一見して通常のヘルメット式潜 している、呼吸技術の急速な開発でした。ドレーゲルは 水装置とあまり違いがありませんでしたが、大変重要な革 1912 年の気球飛行に際して、初めての高度呼吸器を生 新でした。その主な違いは、装置にはバックウェイトや酸 産し、 1914 年には同じ技術が飛行機の高度 記録の 更新 素供給船にダイバーをつないでいたエアホースがないこと を 可能 にしました。後にこの技術はさらに開発され、 です。その代わりに、2 つの酸素タンクと吸 収装置が付 第二次世界大戦時に軍用機で使われるようになりました。 くよう に な りました。そのおかげで、ダイ バーは最高 40 分まで水中 を自由に動くことができるよ うになりま した。1939 年に は、潜水用再呼吸器をベー スに、ダイ ビングおよび映画の先駆者であるハンス・ハースは、ドレ ーゲルのエンジニアと共に現在のダイビング装置の前身で あるダイビング装置の開発を始めました。 1937 「人民のガスマスク」 – かつてない量の兵器注文 月 5 日、第三帝国の 4 年計画の責任者であるヘルマ 6 ン・ゴーリングは「人民のガスマスク」の導入を発表しま した。このマスクの価格は 5 ライクスマルクで 、人 々 は授業やパンフレットを通して、どのように使い、メンテ 1932 年潜水用再 呼吸器 ‹ は潜水艦の乗組員にとっ ナンスするかを習いました。幸い、人民のガスマスクは本 て、標準的な人命救助機 当の緊急事態には使われることがありませんでした。 器であった。 1933/34 年の時点において、既に トライアル もテス トも行われていた炭鉱夫自己救助器に基づいて作られた軍 用救助器のドイツ国防軍からの注文がうなぎのぼりでした。 しかしながらこの注文の増加はハインリッヒ・ドレーゲル オーグスト・ピッカード 成層圏飛行のための液体酸 パラシュート飛行用酸素 炭鉱夫用モデル 160 呼 「最初の 4 年計画」 に 教授(高度および深海研 素コンバーター システム 吸器 おいて、グループへ拡大 究者)との協力 ハインリッヒ・ドレーゲル 潜水艦乗組員用ドレーゲ 一酸化炭素検出器 ティーゲル博士 - ドレー 博士により通貨および銀行 ル・カウンターラング脱 ゲルのエーテル蒸気麻酔器 勉強会の設立 - ケ イ 出用ユニット 従業員住居に対する財政 ンズ主義ロビー サポート ドレーゲル軽量ガスシリン ハインリッヒ・ドレーゲル ダー 博士が個人事業主になる 16 ^ 1931 オーグスト・ ピッカ ード が 成層圏への記録破りの飛行に乗り出す。 にとって悩みの種となりました。というのは、軍事用救助 器の生産には、新しい工場が必要だったからです。彼は第 一次世界大戦での経験以来、余剰能力を作ることに心配を 覚えていました。当時、軍事用品だけを生産して多大な利 なったにも関わらず、民間用生産が販売合計の 47% を占 益が手に入りましたが、最後には会社はつぶれそうになり め 、これは 1939 年に軍事活動が最大であ った時点でも ました。また、政府の絶対主義的政策および迫り来る戦争 そうでした。しかしながら同年、民間製品の開発は停滞し は、苦労して勝ち取った世界市場への輸出志向ビジネスに ました。その結果、戦後会社は国際的競争と言う意味では 対する脅威でした。同時に、制約がありすぎると、国内市 遅れをとりました。 場を競合者にとられることになりました。ドレーゲルベル クはそのため、軍事および民間生産との間でバランスをと る努力をし、それに成功しました。軍事売り上げが莫大に MÜ タイプ正圧 ハインリッヒ・ドレーゲ 搬送式ガス検出のための 病気、死亡およびその他 第二次世界大戦開始 混 合麻酔器 ル博士が第三帝国に追わ ドレーゲル管 の緊急事態のための困窮 れている人を助ける 基金 ガス保護製造の拡大 軍用飛行機用、高度呼吸器 従業員数が 5,000 「人民のガスマスク」 人を超える 製造開始 17 1940 – 49 1943 年軍用飛行機 用、 高度 呼吸器。 ^ 年に強制収容所の捕虜を使 うようにド イツ帝 国 1944 1941 軍備省からの申し出を、断りました。そして同時に哲学者 ドレーゲルでも強制労働 のハンス・ブルーメンバーグなど、ユダヤ人の従業員を国 家社会主義から守りました。業界でこのような姿勢をとっ 強制労働はドイツの産業史の暗い一部です。それは国家社 た者は数少なく、結果として省庁から冷たい目で見られま 会主義政府により系統的に行われたもので、前戦に送られ した。戦争事務所からかなりの圧力をかけられて初めて、 た労働者の代わりとし、戦争で必要な生産を維持するため ノイエンガム収容所からの 500 人の捕虜のための野 戦 のものでした。1944 年には、ドイツ産業に従事し てい キャンプを会社のハンブルグ – ワンズベック部署に設 置 た労働者のおよそ四分の一が強制労働でした。ドレーゲル することに同意しました。こ のような野 戦キ ャン プは ベルクでは、7,000 人の従業員のうち 1,200 人が強制 すべて、捕虜は SS チームの管理下となり ます。 そして 労働でした。そしてソ連、ポーランド、ユーゴスラビアな ドレーゲルベルク は捕虜の扱い にはほ と んど口を出す ど、占領した東欧諸国からの民間人でした。捕虜であった ことができません。それにもかかわらず、会社からのサポ 50 人は少数派でした。ハインリッヒ・ドレーゲルは ートを受けて、工場のテクニカル・マネージャは SS の虐 待から東欧諸国の捕虜を守ろ うと努 力を しましたが、 結果として自身も報復を受けましたが、終戦直後、ドレー ゲルはキャンプの閉鎖をどうにか遅らせ、捕虜が強制送還 されないようにしました。80 年代の 終 わりには、ドレ 軍事生産のために、民間 費用効果の高いモデル 空襲のため、製造中断 軍用機のための標準的 22 の製造工場、 従 業 開発事業が中断 10 圧縮空気呼 吸器 酸素システム 員数 7,000 人 (短期使用) 収容所の捕虜を働かせる ことに対して衝突 18 1947 鉄の肺の試作品。 ^ 1942 ワンズベック工 場のガ ス › マスク製造ラインにおける女子強制 労働者 夫用ガス保護デバイスおよび鉄道ネットワークの復興の ーゲルベルクは強制労働の問題を復活し、対処しようとし ための溶接用トーチの製造は同月に始まりました。そし た最初の会社の一つで、強制労働補償のドイツ基金にも貢 て一年後、モデル D と言う初めての新しい笑 気ガ ス 献しています。 麻酔器が導入されました。しかしながら、戦争は会社に とって大打撃を与え、従業員数は 900 人に下がり、重 要な特許を失ったため、自社と外国の競合他社との間の 1947 ギャップを狭めることができませんでした。 小児麻痺との戦い 戦争の始まりと共に、世界的に小児麻痺が大流行しまし た。患者の多くは長期間呼吸補助が常に必要となりまし た。しかしながら従来の呼吸機器は長期間にわたり使用 するものではありませんでした。鉄の肺は戦後リューベ ックで民間使用のために開発された最初の技術の一つで、 小児麻痺のために呼吸器で麻痺した患者の生存率を驚異 的に上げました。1945 年 5 月の降伏後、イギリス軍 がドレーゲルベルクを管理するようになりました。炭鉱 工場閉鎖そして大規模な 炭鉱夫用呼吸器生産開始 鉄の肺試作品(小児麻痺 一般作業委員会の形成 通貨改革に伴い、新規出発 一時解雇 モデル D O2-NO2 麻 酔器 治療用) 統合マルチ・ガス麻酔技術 19 20 新しい出発: 近代的なテクノロジーグループへの変化 1958 年ハノーバー展示会でのドレーゲルのスタンド。 21 1950 – 59 1952 生命を保護するやさしさ ドレーゲルはロミュラス麻酔器を導入しましたが、これは 完全にユーザの立場から設計されたものでした。第二次世 界大戦後、病院での仕事の方法は劇的に見直され、それは 機械の機能性への絶え間ない改善だけではありませんでし た。人間工学の役割もますます重要になりました。つまり 、職場がきちんとしていればしているほど、そこで行われ る作業は効果的になるはずです。ロミュラスは麻酔医にと ってまったく新しい機能を提供しました。血圧計を備えて おり、この新しいドレーゲル麻酔監視器は脈拍と呼吸頻度 の測定を簡素化しました。ガス配分弁の下には、麻酔医用 の引き出しそして机または棚があり、これは単純なことで すが、作業はかなり楽になります。設備全体はモダンで、 ドレーゲルエンジニアらしく、あらゆる面が手術室に親密 にリンクしていました。以後、ドレーゲルはいくつかの麻 酔器を作り、さまざまな要件にあわせてカスタム化しまし ^ 1952 年新しくそ して た。またアメリカ市場に対しては標準が異なるため、この もっと簡単な麻酔:ロミュラ ス麻酔器。 革新的な機器の双子版を作っています。レミュスは画期的 な成功を市場におさめ、これは戦後間もないドイツの産業 1955 年デザイン部門。 ‹ 製品としては離れ業としか言えません。 酸素テント(酸素吸入 ロミュラス・ユニバーサ モデル G マルチガス 圧縮空気呼吸器、PA 34 治療用) ル麻酔器 再呼吸麻酔装置 と DA 58 保育器 1300 (新生児 ポリオマット長期人工 道路交通管理のための 用の最初の保育器) 呼吸器 アルコテスト管 PA 30 ガス保護デバイス 会社定年基金「ドレーゲ ル・ソジアルカース」の 設立 22 1953 エベレスト山の征服 エリザベス女王の戴冠式の日、イギリスの新聞「ザ・タイ ムス」にてセンセーションを巻き起こしました。世界で一 番高い山が征服されたのです。頂上に到達するためのレー スも技術的なものでした。海抜 8,844 メートルでは 空 気は薄く、酸素を必ず運ぶ必要があります。エドモ ンド・ヒラリーとテンジン・ノーゲイが 1953 年 5 月 29 日に エベレストの頂上に到達したときも、ドレーゲ ルの技術がそこにありました。登山家が運んだ信頼性のあ る酸素タンク、そして前年にスイスの登山チームがキャン プに取り残した酸素タンクが、登山家の成功に必要不可欠 なものでした。ドレーゲルが専門知識を出したアダプター を使い、エドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジンは、 ドレーゲルの追加タンクからの空気により、頂上にたどり 着くことができました。 1953 飲酒検知 飲酒検知を行ったドライバーは全員アルコテスト管をご存 知かと思います。今ではもっと進歩したものが使われてい ますが、これは今日でも世界中で使われているデバイスで す。このデバイスを使って、ドレーゲルは呼気中のアルコ ールレベルを測定することができ、これにより警察は初め て血液検査をすることなく、即座にアルコールに関する懸 念を調べることができるようになりました。この技術の進 歩は、ドライバーが酒気を帯びている状態で運転しないこ とを目指しています。アルコール・インターロックはこの デバイスに運転手が息を吹き込んで、アルコールレベルが ^ 1953 年エベレスト山に おける 指定基準未満であることが示されてから初めてエンジンが エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノーゲイ。 スタートできるようになっています。スカンジナビアの国 々は特にこのデバイスの使用には積極的です。そしてその 際はドレーゲルの技術が採用されます。ドレーゲル・イン ターロック XT は最先端のセンサー技術で 、世界 中で 使われています。 搬送式圧力室 ファビウス麻酔器 ハロタン麻酔技術 圧力管理呼吸器: アシスター 640 レクレーションおよび救 ジャック・コストーと協力 品質保証 : グループ 助ダイバー用、デルフィ 製 造導入 ン II 圧縮空気呼吸器 23 1960 – 69 1960 圧縮ガス用システム・テクノロジー 年代初めから、医療用ガス が入ったタンク を、 近 60 代病院の中で持ち運ぶ必要がなくなりました。病棟や手 術室への供給は集中化されたシステムにより管理される ようになり、これはドレーゲルにより開発そして設置さ れています。このシステムは笑気ガスだけでなく、酸素 転送ネットワーク、圧縮空気および真空装置も備えてお り、また滅菌された手術室用の換気システムもあります。 70 年代から、ドレーゲルは 細菌やウィ ルスに 対す る 高パーフォーマンス・フィル ターを 供給す る ようになりました。集中ガス供給システムを構築および 販売することにより、ドレーゲルは近代的で効率的な病 院の開発に重大な貢献をしました。医療分野での経験は 70 年代初 期に役に立ち、研究室への統 合圧縮 ガス 供 給システムの開発に使われました。これらのシステムは 必要な技術的ガスを正確な分量で抽出することを可能に し、それは研究室のベンチと一体化されており、タンク 管理センターに接続されています。 1969 海中研究室 ジェームス・ボンドの悪役が出現しそうな場所です。ヘル ゴランド水中研究室はオレンジ色の 14 メートルあ る 大 型スチール構造で、非常に冷たい海中においても一週間滞 在することを可能にした、最初のものです。これは水中研 究においてはマイルストーンですが、その目的は生物およ び地学的海底データを 1981 年までリューベック湾 に あるヘルゴランド沖、そしてアメリカ沿岸の北大西洋沿岸 から集めることでした。このデータは海洋技術にとって欠 かせないものです。1913 年、ドレーゲルは最初の潜 水 シミュレータを使って、最高 200 メートルまでの深 海 用機器のテストを可能にしていました。80 年代、 ドレ ーゲルは 2 つの先端を行く潜 水艦シミュレ ーシ ョン ・ 1963 年BG 174 呼吸器を 持った救援隊. ^ システムを作り、さらに水準を上げました。7 つの圧力 病院用集中型ガス供給 ハインリッヒ・ドレーゲル 法定資本形成のための 空気監視のついた新生児用 BG 174 呼吸器 システム 博士が監査委員会に入る ドレーゲル - シュライ バ 6000/6500 保育器 ー計画 スラ麻酔器 クリスチャン・ドレーゲル 蒸気ハロタン噴霧器付き 博士が有責パートナーなる オクタビアン麻酔器 F 104 スターファ イタ ー 用空気供給システムの保守 24 ^ 1969 年ヘルゴランド水中 研究室の立ち上げ。 室がある GUSI は、大型技術装置および新 規の溶 接プ ロセスをテストするに当たり、さまざまな可能性を提供し ました。これにより乗組員は最高 600 メートルまでの ^ 1969 年病院での進歩、ガス供給の集中化。 深 さにおいて水中作業を可能にし、最高 1,000 メートル の深さにおいて大型装置をウェット・チャンバーでテスト することを可能にしました。タイタンはこれをさらに広げ ます。この深海潜水シミュレーションデバイスは、生物医 め、残念ながらそれでは十分ではありません。最大充填圧 学研究に使われ、最高 1,000 メートルまでの 有人潜 水 力は以前は 200 バールだったので、増加す る必要 が 生 を 可能にし、最高 1,500 メートルの深さ にいる 動物を じました。ドイツ連邦の内務省がボランティアの消防士全 観察することができ、海中における生物の医学的そして生 員に自給式呼吸器を装備したい由を発表したとき、ドレー 理的効果を観察できます ゲルは 300 バール充填圧力の導入を推し進 め、方 針 、 規則そして法令に対して新しい基準を設定しました。 300 バール充填圧力の 6 リットルタンクが旧 4 リッ ト ルタン クに置き換わり、急速にヨー ロッ パ中 の圧 縮 1969 空気呼吸器の基準となりました。 圧縮空気は呼吸保護の未来 圧縮空気呼吸器用の 300 バール技術は再度ドレーゲ ル を技術の先端に行かせました。それまでは、法律上定めら れた最小 1,600 リットルの空気を備えるには、消防士は 2 つの重いタンクを持っていく 必要が ありま した。 同 量の圧縮空気が入ったタンクを 1 つ持った方が軽い の で すが、タンクの最大長を定める規則が利用可能な容量を定 プラスチック製高圧ガス ハロタン - カトー 搬送式 北米ドレーゲル(株) HFB 320 噴出 酸素 SMS 1 混合ガス シリンダー (現場用)麻酔器 の設立 システム 再呼 吸器 圧縮空気呼吸器に 300 バール技術を採用 電子測定、管理そして 規制技術の夜明け セオ・ドレーゲル入社 25 1970 – 79 1974 ヨーロッパ委員会がガス検出管を推奨 年 3 月、ヨーロッパ委員会 は職場での 空気品 1974 質検査を必要不可欠とし、特定の品質基準を満たすガス 検出管のみ使うよう政府に推奨しました。これに先立ち 一年前、職業上の安全と健康に関するアメリカ国立機関 はドレーゲルのガス検出技術の品質をチェックしました。 大変優秀な製品だったので、アメリカ職業安全検査官は 正式な測定のために使いはじめました。3 年後イギリ スもこれに従い、ドレーゲル管を使ったガス検出法を正 ^ 1979 年会社の歴史上のマイ ルス トー ン 式な検出手順としました。適用範囲は常に拡大していま である最初の株主総会。 す。毒性のある一酸化炭素の検出は早くも 1937 年から 最初のドレーゲル管の役割でした。瞬く間に広範囲にわ 年にドレーゲル基金を設立し ましたが 、そ こ 1974 たり使われるようになり、特に鉱業において使用されま では彼の豊かなアイデアの実りある継続をするための基 した。70 年代初め、さまざまな 目的の た めに 100 盤を提供しています。彼にとって、これは 20 世紀で を超える管が存在しました 。ドレーゲ ルの 管はエレベ もっとも重要な挑戦事項の一つに取り組むことが含まれて ータや発酵用地下室の一酸化炭素のレベルを検出するこ います。それは多くの開発途上国での人口増加の爆発、 とができ、生魚の腐敗の度合いを決めたり、車やトラッ そして多くの工業国が責任者である、世界的な環境に対 クの急性かつ頻繁に起こる一酸化炭素中毒を防ぎました。 する脅威です。基金の文化的活動は地元のものであると 管の表示感度も常に改善されています。ガス濃度の正確 同時に、社会・経済活動は国際的なので、その両者を含 な情報が必要な領域に技術を採用することが目的です。 みます。そして中心は会社の本拠そして正式なビジネス そしてそれは環境保護、技術の改善、プロセス効率をよ 登録の場所であるリューベックにあります。そこで、ド りよくするため、そして安全性を高めるためにあります。 レーゲルは文化および歴史的遺産の維持を助け、トマス チャレンジ項目は今日でも増え続けています。 ・マン協会およびブッデンブルック・ハウスを支援し、 古い町での広範囲に渡る考古学上の発掘など、多くのこ とを支援しています。 1974 アイデアを国際的に共有するための基盤 1978 安定した航空救難 半世紀以上にわたり、会社はハインリッヒ・ドレーゲル の精神に基づいて生きており、その精神を吹き込まれて きました。その精神には企業的な才能も含まれていまし 年代の終わりには、ヘリコ プターによる 航空 救 難 60 たが、同時に深い社会責任も繁栄していました。ハイン は高くて、法外なために不必要とされていました。これ リッヒ・ドレーゲルは経済および社会政策に対してかな は地上の救援サービスが実質上存在していないと等しい りの興味を持っており、現存する問題を切り出すことに に関わらずそうでした。しかしながら、交通事故による 臆すことなく、また彼のアプローチのしかたはかなり前 死者が 1970 年においておよそ 20,000 人に達し た と 進的でした。彼は自身のことを「荒野の中の声」と呼び、 き、航空救助隊ネットワークのアイデアが話題にのぼる ドイツの株式会社になる 溶接および切断ツール 手術室用天井サプライ・ ドレーゲル基金の設立 部門を売却 ユニット アルファジェットおよび トーネイド用酸素システム クリスチャン・ドレーゲ ル博士とセオ・ドレーゲ ルが執行委員会のメンバ ーになる 26 ^ 1975 年ドレーゲルのガス検出管 を 使 った、精製所密閉の定期測定。 1978 年ドレーゲル呼吸器を 使って、 ‹ 事故現場ですばやく対応する。 ようになりました。救助ヘリコプターに必要不可欠なの 1979 は次のものです。医者に行くまで患者が生存するための 資産および家族の 2 つの原則 搬送用救急呼吸器が必要です。1978 年、ドレ ーゲ ルはオキシログ・ファミリーの最初の呼吸器において、 新しい基準を設定しました。この装置は患者を蘇生する ドレーゲルベルク株式会社は、優先株を発行して上場し チャンスを大幅に改善しました。主要なパラメータであ ました。それからは家族のビジネスであると同時に、株 る呼吸頻度や呼吸要領は継続的調整することができ、人 式会社となりました。その分離ははっきりしています。 工呼吸プロセスの効果が直接装置上でモニターできます。 資本金は 2 つに分かれています。半 分は普 通株、 そ そして呼吸療法は医療機関に患者が到着する前に、救援 して半分は優先株です。普通株の家族が所有し、投票権 ヘリコプター上で行うことができます。現在、航空救助 があるのは普通株だけです。優先株は配当はより高いも の標準はオキシログ 3000 です。取り扱 いが簡 単 のですが、資本市場において提供されています。つまり、 で、使いやすい上に、呼吸パターンを表示し、集中医療 会社の半分は株主、そして残りの半分は家族が所有して 室で使われている大型機械と同様な能力を持ったコント います。このデュアル・モデル成功の秘訣は、両側にお ロールオプションを備えています。 ける透明性です。家族の過半数株主のステータスは はっきりと定義されています。会社の健全性が優先され、 つまり長期にわたる成功、決断そして資本は 1 つの事 務所の保護下にあります。ステファン・ドレーゲルは 2005 年以来、グループの CEO を勤めています。 モジュラー型製造の立ち 会社は公開され、優先株 UV1 集中治療室用 上げ を発行 人 工 呼吸器 PA 80 圧縮空気呼吸 器 オキシログ救急呼吸器 が国際基準となる パノラマ・ノバ・フル フェイス・マスク 27 1980 – 89 空圧的技術はますますエレクトロニックスに置き換わっ 1983 ています。1975 年に、ドレーゲルは新しい中 央エ レ ウルフ・メルボルドの最初の宇宙への任務 クトロニクス部門を立ち上げ、ここでは早期に基礎研究 が行われ、成果を見ました。新しい技術は受け入れられ、 ドイツの宇宙飛行士であるウルフ・メルボルドの最初の 特にガス検出の分野では、これまで以上のガスの種類を 任務であるだけでなく、宇宙での特別条件において科学 検出するセンサーができ、そのデータをすばやくマイク 研究や実験を可能にするモジュールにとっても最初の任 ロプロセッサに供給できるようになりました。1983 務でした。それが「スペースラボ」です。このラボでは、 年には、北ライン - ウェストファリアのすべ ての パト 主な焦点は素材および医療研究に当てられています。ド カーにエレクトロニック・アルコテスト・デバイスが装 レーゲルの技術もそこにあり、ドイツの先導のもとで 2 備されるようになりました。また医療技術の分野でも新 年後に行われた D1 任務など後続する 活動で継続 的 しい世代の装置が発生しました。初めて、コンピュータ に使われました。ドレーゲルはミクロンおよび炭素フィ に補佐された長期 EV-A 人工呼吸器が、機械 による 呼 ルターの特別なシステムを開発し、これによりテスト環 吸を患者の自然な呼吸パターンに調整できるようになり 境における飼育器でさまざまな細菌および化学プロセス ました。これほど成長をとげるためには、空間が必要と の研究に使われる純粋な空気条件を作ることができるよ なります。1983 年、新しいセンサーお よび測 定機 器 うになりました。そして 1992 年には、エアバス A 製造施設の第 3 建設段階が終了しました。 最先端の ク 340 はドレーゲル酸素供 給器を持って旅立 ちました。 リーンルームでチップやセンサーが作られるようになり ドレーゲルベルクは 21 世紀への航空 宇宙学 技術分 野 ました。これは優秀な国際的品質基準に値する投資です。 を自負できます。 1993 年には、信頼性と品質を買われて、NASA は ドレーゲル酸素センサーをスペースシャトル上で呼吸可 能な空気を監視するために選びました。これはまさに弊 社の製品が信頼できるものであることの証明です。 1983 明るい未来のためのクリーン・ルーム 未来はデジタルです。エレクトロニック・センサー付の 製品の販売が 80 年代初めに急上昇しました。機械的 / 1981 年エレクトロニク ス が ‹‹ 機械的 - 空圧的技 術に 置 き換わる:センサーチップ 1988 年初めての統合麻 酔 ‹ ス テーションであるシセロ。 電子化そしてミニチュア 最初のマレンター・シン EV-A 電子呼吸器 企業 ID の立ち上げ CCBS システム、深 海 化の開始 ポジウム(テーマ:人口 潜水器 政策) パーモックス酸素吸入器 販売部門の再編成 新しい素材への基礎研究 クリスチャン・ドレーゲ 資本増加のための参加権 ル博士が執行委員会の議 固定検出テクノロジー の発行 長となる 28 ^ 1985 年スペースラボと 共に宇宙 へ: ミ ッション D1 用ウルトラ・ク リー ン ・ 1988 ガス・フィルター・システム。 シセロ世界初登場 月末、世界麻酔学会がワシントン DC で開かれま し 師は、彼らの経験について調査されます。ドレーゲルに 5 た。ハイライトの一つは、初めての統合麻酔ワークステ とって、技術的革新と共に、お客様と近い位置にあるこ ーションであるシセロの発表でした。シセロはデジタル とが製品開発の基礎です。これは効果的な戦略です。ド 改革の落とし子で、当時の手術室における作業環境を驚 レーゲルは 1996 年に麻酔の分野において 世界の リー 異的に変えました。ガスの配分や呼吸などのすべての機 ダーとなり、市場に新しい、前身的な製品を作り続けて 能が、モダンなデータ管理により電子的に制御され、そ きました。2002 年には、ゼウスがまたも や型を 破り れらははっきりとモニターに表示され、人間工学的ユー ま した。この革新的な概念は個々のパラメータや 機能 ザーガイダンスにより制御されます。ワークステーショ から焦点を移し、プロセス全体に焦点を当てました。つ ンは機械的制御および規制作業を司り、そのため麻酔医 まり麻酔から患者のモニターから文書化まで、麻酔シス は患者に専念することができます。実務志向の作業環境 テムが近代的な病院の IT ネットワークに完 全に統 合さ の進展のため、ヨーロッパ、アジアそしてアメリカの医 れ るようにしました。 ハインリッヒ・ドレーゲ シセロ統合麻酔ワーク レーバルストラース工場 ミッション D1 スペー ス 保育器 8000 ル死亡(1986 年 6 月 ステーション での新しいビル ラボの飼育器用ウルトラ 28 日) ・クリーン・ガス・フィ 炭鉱夫用オキシボックス K 新生児および未熟児用 ルター・システム 自己救助器 ベビーログ 8000 呼吸器 タイプ 720 PF 化学保護服 エビータ人工呼吸器 29 30 グローバル化: グローバルなテクノロジーリーダー として再位置付け 1995 年シンガポール支社でのドレーゲル従業員。 31 1990 – 99 ^ 21 世紀への道:レバルストラス工場。 1997 ドレーゲルはグローバルなプレイヤーへの道を歩む が 20 世紀後半においてこの決断 を維持し、 さら に 推 し進めました。5 代目になったころには、ド レーゲ ル (株) ハインリッヒ・ドレーゲルは第二次世界大戦後の復興時 は 4 つの大陸において 7 つの製造拠点を持ち、 期において、国際的な存在を強く知らしめることの重要 世界中に 100 の販売会社がありました。会 社は 一 つ 性を確認しました。当時、グローバル化という概念は存 のはっきりとした目標を念頭におきました。つまり、製 在しませんでした。彼は 1950 年に会社初の海外子会 品の開発、製造そして販売を行う会社をもとに二つの部 社をブラジルのサンパウロに設立しました。彼の息子で 門を作り、それぞれが医療および安全技術においてそれ あるクリスチャン・ドレーゲル博士とセオ・ドレーゲル ぞれの中核技術に焦点を当てることです。ドレーゲル航 潜水器における自己混合 ニュートスイート高圧 「最も家族にやさしい PAC II 警報器 ボーイング B777 用 原理 潜水服 大型組織」として認められる 化学 酸素発生器 PA 94 圧縮空気呼吸器 エアバス A330/340 緊急酸素システム フューチュラ呼吸保護 マスク ユーロファイター・パイロ ット用空気供給システム ステファン・ドレーゲル 入社 32 1998 年クリーンな空気を供 給す › るためのセンサー、トランスミッ ターそして測定ヘッド。 1998 年ガス検出装置が新 しい ›› 国 会議事堂に設置される。 空宇宙 GmbH そしてサービス分野などの周辺活 動 は 、 後に外注化されました。 1998 定年へのアイディア ドレーゲル基金はドイツの大統領であるヨハネス・ラウ などのゲストを招き、シンポジウムに参加してもらって います。そのシンポジウムのテーマは、払込金が少なく 1999 なる中、退職基金はどのように安定化させることができ 新しい国会議事堂にクリーンな空気 るのか、ということです。国内および海外の専門家が答 えを求めています。ドレーゲルでは論理上そして現実に も、従業員の面倒を見るという伝統があります。早くも 新しくオープンした国会議事堂は、ドレーゲルのガス検 1904 年からヨハン・ハインリッヒ ・ドレーゲ ル は 出技術によりテストされるまで会議場で息を吸うことさ 販売高と業績に基づいたボーナスという形で、利益を共 えできませんでした。国会または党内あるいはミーティ 有するしくみを導入していました。孫のハインリッヒ・ ングルームの中心部に有毒あるいは爆発性のあるガスま ドレーゲルは経済理論についてのさまざまな文献におい たは蒸気が入り込むチャンスはまったくありません。最 て個人定年計画を支持しましたが、1957 年に初めての 先端のドレーゲルセンサーは国会議員が吐き出す息を隅 資本形成計画を作りました。この伝統に基づき、会社は 々まで管理します。ほんの少しの有毒ガスもすばやく、 定年資金の将来に関する問題の研究および革新的な道へ 明確に、そして信頼性のある方法で識別し、可能な限り の探求を継続しました。1983 年に導入した等級式 手 誤認警報を避ける必要があります。これはイオン移動度 当案を用いて、会社は従業員に株主になる機会を与えま 分光法を使って行われます。ドレーゲルの固定ガス検出 した。2005 年には新しい計画がドレー ゲルで 始 ま システムは世界中で安全な作業環境を保証します。そし り、それにより従業員は定年に向けて柔軟性のあるアプ て半導体工場、発電所、石油プラットフォームなどあら ローチをとることができました。そして従業員による個 ゆる場所で使われています。世界のどこであろうとも、 々の投資に対して、さまざまな基本的定年財政レベルが 主要な場所でのサポートは一日 24 時間必要です。 ド 設けられ、会社の成功と定年後の貯金を連結することが レーゲルは 6 つの専門のお客様センターのグ ロー バ できるようになりました。 ルネットワークでこれを行っています。 初めてのすべてを包括し エアバスフリート全体に セオ・ドレーゲルが執行 ボーイング フリート ドレーゲルマン PSS ている PDMS 対して、緊急酸素システ 委員会議長になる 全に対して化学酸素発生 100/500 圧縮空気 呼 吸器 (患者データ管理システ ムを導入 器を供給 証拠を残すためのアルコ ム) クリスチャン・ドレーゲ テスト 7110 ジュリアン麻酔器 ル博士が監査委員会の副 「ドイツ・ロジスティッ マイクロパックおよびミニ 「ヨーロッパ賞、社会 議長となる ク賞」受賞 ワーン搬送式ガス検出器 改革部門」を受賞 再編成:部門の確立 「環境にやさしい会社」 として認められる 33 2000 – 2006 これは救急医療、手術前後、そして集中医療から出産前後 2001 および自宅療養にいたります。情報とテクニカル医療シス ニューヨーク、9 月 11 日 テムのシームレスな統合が、この包括的なアプローチの中 心的な要素で、ソリューションにはサービス、トレーニン ワールド・トレード・センターのツイン・タワーが燃え グ・プログラムおよびサービス・サポートが含まれていま ています。これがテロリストによる攻撃であることがわ す。新しい会社は 50 ヶ国においておよそ 6,000 人 の かる前に、消防士や救助隊が先例のない規模で直ちに出 従業員を雇い、 急性期 医療の世界的リーダーです。 動しました。燃えているタワーに入る救助者も自分たち を守る必要がありました。呼吸保護デバイスそしてフィ ルター、マスク、ガス検出ユニットそして赤外線カメラ 2004 が必要でした。ドレーゲルはこれに対して緊急対応プロ アメリカ保育器スペシャリストの取得 グラムがあります。これは救助任務に対する正確な手順 を定義しています。このような規模の事故では、このプ ログラムが真に値するかどうかがわかります。利用でき アメリカの保育器のスペシャリストであるエアシールド る装置が直ちに点検され、ドレーゲルの従業員からなる (65 年もの間新生児関係プロバイ ダーの リ ーダ ー) タスク・フォースが作られ、特別の輸送方法が手配され を取得して、ドレーゲルは未熟児および新生児の保育器 ました。これは半日以内に行われました。アメリカでは の一番均一な市場であるアメリカでの存在をさらに大き 「ドレーゲルマン」は百年以上にわたり、完璧に装備さ なものにしました。その目的は包括的治療方法で、これ れた救助隊員と同じ意味として使われています。90 年 に患者のモニターおよび新生児の呼吸を組み合わせるこ 代にはその名の意味を踏襲して、最新のクローズド・サ とでした。 ーキット呼吸器であるドレーゲルマン PSS BG4 の名 前に使われました。BG4 の高度な呼吸技術を使 って 、 救助隊員は最高 4 時間まで作業ができます。これにより 2006 9/11 のような大事故の際には、 被害者およ び救助 者 ドレーゲル・メディカルはリューベックで将来に向かっ の命を助けることができます。 て構築 年 8 月、5 代目社長であるステファン ・ド レ 2006 2003 ーゲルは、リューベックでドレーゲル・メディカル・サ ドレーゲル / シーメンズジョイント・ベンチャー ブグループの新しい本社の礎を置きました。グローバル 化の時代において、この投資はドレーゲル・グループに とってリューベックがいかに重要であり、また伝統に忠 年にはドレーゲルとシーメンズ がジョ イン ト ・ 2003 実であることを示しました。透明性、柔軟性そしてコミ ベンチャーであるドレーゲル・メディカルを発表し、新し ュニケーションにさらに改善を加え、このビルの構造お い時代に入りました。その目的は、ドレーゲルの医療技術 よびインフラは、会社が世界的規模でネットワークされ 製品ポートフォリオにシーメンズの監視技術を包括するこ ている、知識ベースの組織に変換したことを示しました。 とでした。ドレーゲルで一番の販売を誇っている医療部門 は、1 つの ソースからプロセス志向のシス テム・ ソリ ューションを提供できます。これにより急性期医療 (APOC) において費 用を削減し、プロセ ス全体 を 通 し て、患者に対するケアの品質を向上させることができます。 カレオ保育器 アメリカ保育器 ステファン・ドレ リューベックのド 世界万博 2000 パックエックス 2 ドイツ TecDAX スペシャリスト、エ ーゲルが執行委員 レーゲル・メディ に「未来の麻酔ワ ガス警報システム 指標に上場 ークステーション」 サビーナ搬送式 アシールドの取得 会の議長となる カル新本社の礎を 人工呼吸システム 置く として参加 エアバス A380 ドレーゲル・エア アルコテスト セオ・ドレーゲル のシステムの契約 ロスペースの売却 テレメトリ が監査委員会の副 を取得 6510 議長となる ステファン・ドレ 統合麻酔ワークステ ーゲルが執行委員 ーション、ゼウス 会メンバーとなる 34 革新的なアイデアおよびソリューションで 未来を形作る 今日世界中の 10,000 人従業員と共に、ドレーゲル・グ ループ は高パ ーフォ ーマ ン スのグローバル・テクノロジー・グループで、医療および安全サブグ ループでリーダー的位置を占め、確実に収益を伸ばしています。医療サブグル ープは急性期医療サービスそして統合ソリューションの傑出したプロバイダで、 安全サブグループは個人用保護装置およびガス検出技術の世界のトップ・プロ バイダーであるだけでなく、エンド・ツー・エンド災害管理に対して、広範囲 にわたるシステムソリューションを提供しています。毎年、ドレーゲル・グル ープは売上高のおよそ 7% を研究開発に投資しています。独創的かつ国際 的 な精神により、ドレーゲル・グループは常に革新的な「生命を守るテクノロジ ー」に対して基準を設定します。 D ドレーゲル・グループ Moislinger Allee 53/55 23542 Lübeck, Germany www.draeger.com コーポレート・コミュニケーション 電話 (+49-451) 882-22 01 90 70 252 ファックス (+49-451) 882-39 44 =

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